プロフィール

yuki-yoshida

生きづらさ体験談ブログ「たんぽぽの栞」の運営者・ゆきと申します!

当ブログをご訪問をいただき、誠にありがとうございます。

運営者・ゆき
自己紹介

まずは簡単に、自己紹介をさせていただきます。

ゆきのプロフィール
  • 名前:ゆき
  • 在住地域:京都府宇治市
  • 年齢:29歳(1996年2月生まれ)
  • 出身校:佛教大学大学院・社会学専攻社会学研究科(修士課程)
  • 趣味:神社仏閣めぐり、読書、研究や考察、文章を書くこと
  • 好きなもの:ディズニー、猫、音楽、パスタ、ラーメン
  • 現在の活動(仕事):ブログ運営、SNS運営、講演講師など
ゆき
ゆき

一人っ子です。実家暮らしで、両親と3人で過ごしています。

波乱万丈な人生
これまでの歩み

以下からは、生きづらさを自覚し始めた幼少時代から、ブログを立ち上げるまでの歩み紹介させていただきます。

自分で言うのも何ですが、けっこう波乱万丈な人生です……(笑)

幼少期・小学校時代

上手に生きられない

小さな頃から、私は「生きること」がとても下手でした。

  • 自分の気持ちをうまく伝えられない
  • 人と関わることが苦手
  • すぐに疲れて体調が悪くなる
  • ネガティブ思考から抜け出せない

誰よりも繊細で、不器用で、一歩進んだだけで二歩も三歩も下がってしまう……そんな子どもでした。

そのため、物心ついた頃から「私はふつうの人と少し違うのかも」ということをぼんやり感じていました。

“ライト”ないじめ

「ふつうの生き方」ができなかった私は、幼稚園や小学校をはじめとした複数のコミュニティで、“ライト”ないじめを受けました。

仲間外れにされたり、無視されたり、陰口を言われたりすることが毎日のようにあって、すごく辛かったです。

しかし、一番辛かったのはいじめではありません。それを知った幼稚園や小学校の先生、両親たちの対応です。

  • 加害者側の味方をし、私を悪者扱いして叱る
  • いじめの存在を認識しているにもかかわらず、何の対処もしてくれない
  • なかなか本音が言えない私を責めたり、否定したりする

上記のような感じの対応ばかりで、心の痛みに寄り添ってくれる大人は誰もいませんでした。

次第に「この世界に信頼できる人間なんていない」という思いが強くなり、他人と深く関わることを避け、心を閉ざすようになりました。

謎の体調不良

小学校2年生くらいから、腹痛や微熱など、謎の体調不良に襲われることが多くなりました。

当時(2003年頃)は、メンタル不調に対する認知度が今以上に低かった時代です。

そのため、病院へ行っても「原因不明」としか言われず、看護師さんから仮病を疑われることも少なくありませんでした。

しかし今振り返ると、あの体調不良はHSP(HSC)や自律神経失調症に起因するものだったように思います。

そのことがわかっていれば、少しは症状の対処ができたかもしれません。

ゆき
ゆき

それでもこの頃は、欠席を繰り返しながらも普通の学校生活を送っていました。

まだ少しだけ「頑張る気力」が残っていたのだと思います。

中学校時代

体調不良の悪化

中学に入ってからも、“ライトないじめ”や謎の体調不良が消えることはありませんでした。

むしろ、当時通っていた学習塾の講師(複数名)からの対応に深い傷を負い、人間不信や体調不良は輪をかけて酷くなりました。

大人になった今でも向き合い続けている「パニック障害」「社交不安障害」の症状が出始めたのは、この頃です。

当時はまだクリニックに通っておらず、精神疾患の知識もなかったので、何の対処もできなくてすごく苦しかったです……。

居場所を失い、途方に暮れる

もし両親との関係が良好であれば、少しは救われたと思います。

しかし、この頃の両親はいわゆる“毒親”で、イライラの捌け口に利用されたり、気持ちや行動を否定されたりする状況が毎日続きました。

一人っ子だったので頼れる兄妹もおらず、余計に辛かったです。

「家」「学校」「塾」という全てのコミュニティで居場所を失い、途方に暮れる日々……。

そんな私は、自分の人生を変えるために、あることを決心します。

「認められたい」

誰からも愛されず、認められず、自分の存在意義を見失った私は、周囲の大人たちの気を引きたくて必死でした。

そこで思いついたことが「学校の定期テストで全科目90点台を取る」という目標でした。

中1の私
中1の私

定期テストで全科目90点以上を取れば、さすがの両親や塾の先生も、私を認めてくれるかもしれない……!

そう思ったからです。

今まで一度も“まともな愛情”を注いでもらえなかったからこそ、目に見える形での承認が欲しかったのだと思います。

その決意を胸に抱きながら中学2年生となった私は、今まで以上に勉強を頑張るようになりました。

心が壊れたあの日

その努力の甲斐あって、2学期の期末テストでは、過去最高の点数を取ることができました。

目標だった「全科目90点」には届かなかったのですが、努力が実って良い点数を取れたことは純粋に嬉しかったです。

しかし、その結果を知った両親や塾講師は、まさかの無反応。

「それがどうしたの?」という感じで、興味すら示してくれませんでした。

この時、私の中で何かが壊れたように思います。体中のエネルギーが消滅し、徐々に「生きる気力」が失われていくのがわかりました。

不登校人生のはじまり

「生きる気力」を失った私は、年が明けた頃から頻繁に胃痛を起こすようになりました。

笑うことすらできなくなり「今まで私はどうやって笑顔を作っていたんだろう……」と考え込んでしまったほど。

徐々に学校を欠席・早退することが増え、塾に行けない日も多くなりました。

そこからほとんど教室に行けなくなり、2月初旬に不登校となりました。

今振り返ると、長年ずっと抱えてきたストレスや苦しみが限界を迎えたのだろうなと思います……。

ゆき
ゆき

その後、学内カウンセリングルームに週2で通っていましたが、再登校することなく卒業を迎えました。

高校時代

二度目の不登校と家庭崩壊

中学卒業後は、ごく普通の全日制高校へ進学しました。

当時はまだ「不登校」が社会に浸透しておらず、スマホ普及前だったこともあり、進路に関する情報はゼロでした。

そのため「通える自信は1ミリもないけど、高校に行くしか道はない」と思っていたのです。

予想通り(?)高校にはほとんど通えず、わずか2か月で不登校に逆戻り。

両親は「環境が変われば行けるかも」と思っていたようで、二度目の不登校をきっかけに家族関係はさらに悪化しました。

泣き叫ぶ母。怒鳴る父。そして、過呼吸や摂食障害、不眠症状に苦しむ私……。

今振り返ると、一種の“家庭崩壊”のような状態に陥っていたように思います。正直、毎日が地獄でした。

「ふつう」からの逸脱

その後、偶然再会した小学校の同級生から、通信制高校の情報を教えてもらいました。

そして、全日制高校を退学し、彼女に教えてもらった通信制高校に編入することになりました。

現在は多くの通信制高校があり、社会的認知も徐々に広まりつつあります。

しかし、私が高校生だった当時はまだ認知度が低かったため「当たり前とされている進路」から逸脱したことに強烈な負い目を感じていました。

そのストレスが体調不良を助長させてしまったようで、入学後すぐに「不登校・ひきこもり状態」に……。

パニック障害や社交不安障害の症状はもちろん、ストレス性中耳炎、PMSや月経困難症など、新たな生きづらさとも直面し、とても苦しかったです。

高卒認定試験

そんな状態だったので、通信制高校はほとんど通えず、後に退学。

今後の進路についても到底考えることができず、自宅で悶々とする日々が続きました。

しかし「高卒の資格くらいは持っておきたい」という思いは強くありました。

そのため、通信制高校で取得したわずかな単位と「高校卒業程度認定試験(高卒認定)」を合わせて、なんとか高校卒業の資格を取得!

今振り返ると、周りの目を気にして少し無理をしていた気もするのですが、この時の頑張りは決して無駄ではなかったと感じます。

一歩を踏み出せないもどかしさ

18歳になり、同級生は大学に進学したり、就職したりして新たな進路を歩み始めていました。

しかし私は、相変わらず体調が優れず、そして何をする気力も起きず「ひきこもり生活」を続けていました。

母親は「無理に動く必要はない」と言いつつも、定期的に私の部屋に来て「これからどうする?」みたいなことをよく言っていました。

それだけでなく、周りの大人たちからも、以下のような感じでいろいろなことを提案されていました。

親戚
親戚

大学がしんどいなら専門学校でも受けたら?

クリニックの医師
クリニックの医師

ずっと家にいるからしんどいんじゃないの?バイトでもしたら?

しかし、退学経験のトラウマや、一向に良くならない体調不良への不安感が強く、どうしても一歩を踏み出すことができませんでした。

うるさい大人を黙らせたい

とはいえ、いつまでも動きがないのはしんどいですし、ずっとこのままでいることはできません。

何より、周りからしつこく進路のことを言われ続けることが、ものすごく苦しくて鬱陶しかったです。

そのため私は、同級生とは1年遅れで、自宅近くの短大へ進学することに決めました。

19歳の私
19歳の私

私が行動することで周りが大人しくなるのならとりあえず進学してみるか……。

そう思いました。今振り返ると、周囲の言葉や視線を気にしすぎるあまり、かなり無理をしていた気がします。

短大時代

こんな私に生きる資格はない

せっかく入学した短大ですが、やはり心身の状態が優れず、わずか1日で不登校になりました。

自己嫌悪から体調も悪化し、今振り返ると若干「うつ病」ぽかったのかなと思います。

クリニックの医師
クリニックの医師

みんな当たり前に行ってるのになんで行けないの?甘えてるだけでしょ?

友人
友人

また不登校?これからどうするの?

クリニックの医師や親戚、友人や知人からは、上記のようなことをひたすら言われ続けました。

「こんな私に生きる資格なんてない」と、自己否定感や未来への恐怖に押しつぶされそうな日々でした。

目標を見つける

そんなある日、何気なくテレビを観ていたら、フリースクールに密着したドキュメンタリー番組が放送されていました。

不登校に関するテレビ番組を観たのは、この時がはじめてだったように思います。

番組を通じて、私は以下の2つのことを知りました。

  • 私のような生きづらさを抱えている子どもや「当たり前」に馴染めない子どもは、想像以上にたくさんいる
  • この社会には、そのような子どもたちをサポートする生き方・働き方がある

そして、こう思ったのです。

19歳の私
19歳の私

学校教育や日本の教育について、専門的に学んでみたい!

いつか私も、生きづらさを抱える子どもたちをサポートできる大人になりたい!

この決意は、私の人生を大きく変えることになりました。

大学時代

大学(通信課程)へ

短大を退学した後、佛教大学の教育学部(通信課程)へ再入学しました。

通信課程を選んだのは、単純に、毎日大学へ通う自信がなかったからです。

しかし「もし体調が回復したら、普通の通学生活を送ってみたい」という思いも強くあったため、

2年次もしくは3年次に“転籍試験”を受けて、通学課程に行けるように心身を整える

ということを目標に掲げ、新たな人生構築を頑張ることに決めました。

体調の回復

明確な目標が見つかったことで、長年の体調不良は少しずつ改善されていきました。

アルバイトや大学の課外活動を始める余裕も出てきて、充実した毎日を送れるように!

その後「転籍試験を受ける」という目標も叶えることができ、3年次からは念願の通学生活がスタートすることになりました。

ゆき
ゆき

この時の私は22歳。同級生とは2年遅れの進級でした。

8年ぶりの通学生活

8年ぶりの通学生活は、とにかく毎日がしんどくて、辛くて、体も心もボロボロでした。

もちろん、ある程度のしんどさは覚悟していましたが、想像をはるかに超えるしんどさで毎日泣いてました。

もともとパニック障害や社交不安障害、HSPの気質などを持っていたため、余計にしんどかったのだと思います。

授業を欠席・遅刻してしまうことも多かったですし、学内や電車内でパニック発作を起こしたことも数知れず……。

それからしばらくした頃には「子宮内膜症」と診断され、正直、自分でも訳がわからないくらいに疲弊困憊な日々でした(笑)

学ぶ楽しさ・人の温かさ

しかし、どの授業もすごく面白くていろいろなことを学べたので、大学に行くこと自体はすごく楽しかったです。

先生方も優しい方ばかりで、さまざまな手段を使って私をサポートしてくださり感激でした。

学びを深めることの楽しさや、人の温かさを知ったのは、この時が初めてだったように思います。

そのため、数多くのしんどさ・苦しみはあれども、いろいろな幸せを嚙みしめながら通学・卒業することができました!

ゆき
ゆき

卒業証書を手にした時は、すごく感慨深かったです……!

大学院時代

院進学の理由

大学卒業後は、大学院へ進学しました。

進学を決めた理由はいろいろあったのですが、一番大きな決定打になったのは、就職して働く自信がなかったことでした。

体調不良や人間不信は、一時期に比べればかなり回復していたように思います。

しかし、漠然とした生きづらさや、HSP気質、パニック障害や社交不安障害の症状は一向に消えず、まだ根強く残っていました。

そのため、朝から晩まで会社勤めをし、社会の荒波に揉まれて生きていく自信が持てなかったのです。

24歳の私
24歳の私

このまま就職なんて絶対に無理。もう少しだけ、将来を考える時間や体調を整える時間がほしい……

そのような思いと「もう少し社会学を極めたい・研究をやってみたい」という思いが重なり、大学院への道を選びました。

うつ病の発症と休学

大学院に入ってからも、さまざまな困難が降りかかりました。

  • 「子宮内膜症」が悪化し、人生初の手術入院をおこなう
  • 人間関係のもつれから「うつ病」を発症する

特にうつ病の影響は計り知れず、大学院への通学や外出はおろか、日常生活を送ることすら困難な状況になりました。

そのため、たくさん悩んだ末に、大学院はしばらく休学することになりました。

無理を続けた代償

不登校やひきこもりを経験した私にとって「休学=人生の動きが再び止まってしまうこと」は、ものすごく屈辱的な出来事でした。

「なぜ私の人生はいつまで経っても上向きにならないのだろう……」と思い悩む日々でしたが、ある時、こう思ったのです。

休学中の私
休学中の私

ここでしっかり向き合わないと、私は永遠に暗闇から抜け出せない気がする……。

それまでの私は、さまざまな“無理”を重ねながら日々を生きてきたように思います。

体調不良が改善されていないにもかかわらず「ふつうの人生」を歩みたい一心で無理やり進学を決めたり、新しい道に進んだり……。

本来であれば、ゆっくりと心身を休ませ、コンディションを整えた上で行動を起こすべきだったと思います。

しかし私は、数々の焦りや不安から逃げるようにして、コンディションをろくに整えないままフルスピードで突っ走って生きてきました。

「そりゃ病気にもなるわ」というのが、冷静さを取り戻した私の感想でした(笑)

ゆき
ゆき

ある意味、私のうつ病は「不登校・ひきこもり以降も無理をし続けてきた代償」だったのかもしれません。

相談機関の裏切り

それからの私は、さまざまな書籍を頼りにしながら「自己対話」を繰り返し、自分の弱さや生きづらさと向き合い続けました。

その甲斐あって、うつ病発症から1年後にはかなり症状が改善し、大学院にも復学することができました。

しかし、復学直後に予想外の出来事が起きました。当時通っていたカウンセリングを、理不尽な理由で突然切られてしまったのです。

信頼していたカウンセラーや施設職員に裏切られ、深い傷を負った私は、外出困難な状態へ逆戻り。

心因性失声症も発症し、それまで以上に生きる希望を失いました。

ゆき
ゆき

「支援者ですら裏切るのだから、こんなんじゃ誰も信じられない」と、対人恐怖がより強まりました……。

執念で卒業(修了)する

一時期は、大学院の退学を真剣に考えたり「自分の人生の幕引き」について思い悩んだりしたこともありました。

しかし、幾度もの困難を経てようやくここまで来れたわけですから、そう簡単には投げ出したくありません。

院生の私
院生の私

せっかくここまで頑張って生きて来たのだから、きちんと卒業(修了)してひとつの成果を掴みたい

そして、私もいつか、笑顔で幸せな人生を歩んでみたい……!

そう思った私は腹をくくり、大学院への通学再開を決心。

ほぼ“執念”で授業や論文執筆を乗り切り、なんとか無事に大学院を修了することができました!

ここには書ききれないほど、いろいろな苦しみや葛藤がありましたが、不登校から大学院まで来れたことは、人生の大きな財産になっています。

現在に至るまで

休養期間

大学院を出た私は、進学も就職もせず「休養」することにしました。

ここまで全速力かつフルパワーで生きて来たので「どこにも属せずゆっくりする時間が欲しい」と思ったからです。

この休養期間を利用して、やりたいこと(成し遂げたい目標)がありました。

それは「いろんな生きづらさを抱えながらも、毎日を楽しく、幸せに過ごせる生き方を探す」ことです。

当時27歳だった私には、このような目標がありました。

27歳の私
27歳の私

30歳までに、自分の人生を確立させて幸せになりたい!

その目標を実現するために何をすべきかを、時間をかけてゆっくりと考えてみたかったのです。

人生の再構築

そこで私は、改めて自分の心と向き合いながら、人生の再構築をおこなうことにしました。

  • どんな仕事をすれば、体調に負担なくスムーズに働けるのか?
  • どんな生き方をすれば、毎日を楽しく幸せに過ごせるのか?
  • どんなことをして、誰に対して社会貢献していきたいか?

これらを考える中でふと思い出したのが、10代の頃からぼんやりと持ち続けていた“とある夢”の存在でした。

文章で光を届けたい

不登校になる少し前(中学1年生くらい)から、私はこんな夢を持っていました。

  • いつか自分の人生体験を“文章”を通じて世の中に発信したい
  • その発信で、誰かに光を届けられる人間になりたい

子どもながらに、同じような苦しみを抱えている人を救いたい気持ちがあったのだと思います。

その後、不登校やひきこもり、複数の精神障害など、さまざまな生きづらさと出会ったことで、それらの想いはより強固なものとなりました。

しかし、自分に自信がなかった私は、夢実現に向けての行動を起こすことができませんでした。

少し前の私
少し前の私

私は今まで、生まれてから一度も生きづらさを乗り越えた経験がない。

それなのに、悩みを抱えている人たちの心に響くものを届けるなんて無理だろうな……

けれど、うつ病を経て何度も自己対話を繰り返す中で、考えが変わりました。

少し前の私
少し前の私

生きづらさの当事者だからこそ伝えられること、語れることもたくさんあるのでは?

その考えに至った時、バラバラだった複数の点が、一本の線でつながったような気がしました。

「これこそが私の生きる道なのかもしれない……!」と、心から思いました。

何者でもない私

その後、2024年6月に当ブログを立ち上げ、関連SNSも少しずつ始動させました。

最近は、私の存在を知った方からのご依頼で、講演やお話会などの活動もさせていただいています。

思わぬ形で活動の場が広がっていて、驚きと感謝の気持ちでいっぱいです!

しかし「たんぽぽの栞のゆき」として生きるようになってからも、さまざまな生きづらさと向き合う日々は続いています。

いろんな活動をしていると、いわゆる“支援者”という捉え方をされる時も多いですし、それ自体はすごくありがたいことだと思います。

しかし私は、今までもこれからもずっと、生きづらさの一当事者・経験者でしかありません。

どこかの現場で働いた経験もなければ、何の資格もない、どこにでもいる普通のアラサーです(笑)

でも、ある意味「何者でもない私」こそが一番の強みであり、アピールポイントでもあるのではないかと思っています。

これからも、私だからこそ伝えられる言葉の数々を、自由気ままに発信していきたいと考えています。

その発信が、いつか誰かの光になることを信じて……。

さいごに

改めまして、プロフィールをご覧くださりありがとうございます!

これからも、いろいろな経験をした私ならではの記事をたくさん書いていく予定です。

ご興味があれば、また遊びに来ていただけると嬉しいです。

こちらもぜひどうぞ!
おすすめの人気記事
ゆき
ゆき
たんぽぽの栞・運営者
Profile
1996年生まれ。不登校・ひきこもり状態から、三度の退学を経て大学院修了。
現在は、うつ病やパニック障害、HSP、婦人科疾患と向き合いながら日々を生きています。
体験談を語る講演やイベントも、京都府を中心に不定期で開催中です!
プロフィールを読む
記事URLをコピーしました