「なぜ学校に行けなくなったの?」私が不登校になった理由
「なんで不登校になったん?」
私に不登校の過去があると知った人から、ほぼ必ずされる質問です。
こういうとき、私はいつも返答に困ります。
それは、ひとことではとても説明できないほど、複雑で多様なストレスが重なり合った結果、不登校になったからです。
というわけで本記事では、私が不登校になった経緯をざっくりとお話していきます。
幼少時代にストレスを抱え始めてから、我慢の糸がプチンと切れて不登校になるまでの流れをリアルに綴っています。
一個人の体験談として「こういう不登校の事例もあるんだな」と知っていただけたら幸いです。
人間不信
幼稚園の頃、同じクラスの子たちからの“ライトないじめ”に悩んでいました。
仲間外れにされたり、陰で悪口を言われたり、約束をわざとドタキャンされたり……。
先生方も“見て見ぬふり”という感じで、結構しんどかったですね。
小学校に入ってからは、より広範囲&長期的に“ライトないじめ”を受けるようになりました。
最初は辛かったですが、だんだんと慣れてきて、高学年の頃には適当にあしらえるように……。
ただ、いじめを重ねるにつれて他人との関わりがどんどん苦手になっていき、一人でおとなしく過ごすことを好むようになりました。
おそらく、この頃から、「対人恐怖症」※①の要素が形成され始めたり、もともと持っていた「HSP」※②の要素が強まっていったりしたのだろうなと思います。
※①:他人と話したり、交流したりするときに極度の緊張・不安を感じ、日常生活に支障をきたす精神疾患。
※②:強い感受性や敏感さを持つ人のこと。「Highly Sensitive Person」の略。
最悪だった大人たちの対応
そういった人間不信や対人恐怖、HSPの進行により輪をかけたのが、両親をはじめとした周囲の大人たち(学校の先生)の対応です。
私の両親は、「基本的には優しいけれど、私の意見や考えはほとんど尊重してくれない」という人たちでした。
今は全然そんなことなくて、すごく優しい両親なのですが、当時はそんな両親のことを信用できませんでした。
常に二人の顔色をうかがいながら行動・発言していましたね。
さらに最悪だったのが、ライトないじめの存在を知った学校の先生(担任)の対応です。
いじめっ子の謎の言い訳を信じた先生が私を悪者扱いして叱り、言う必要のない「ごめんなさい」を言わされたんですよね。
「大人は誰も信用できないし、私の味方にすらなってくれないのだな」と思いました。
「なぜ学校に行かなければいけないの?」
小学校の頃の私には、常々疑問に思っていることがありました。
それは、「なぜ学校に行かなければいけないの?」ということです。
性格も、能力も、個性も、全てがバラバラの子どもたち。
それなのに、「同じ時期に生まれ、同じ地域で生活しているから」という理由だけで、ひとつの空間に押し込められ、同じような生活を強いられる—。
なぜそのような歪んだ教育が正当化されているのか。
なぜ将来何の役にも立たなそうな勉強を必死にさせられるのか。
そしてなぜ多くの人は、それらを普通に受け入れて生活しているのか。
子どもながらに疑問でしたし、苦痛でした。
当時はまだ幼かったので、そういう違和感や疑問を上手に表現することができませんでした。
しかし、その言語化されないモヤモヤやストレスが、次項で説明する「体調不良」へと繋がっていったのだろうなと思います。
謎の体調不良
あるときを境に、私は、謎の体調不良に悩まされるようになりました。
腹痛、頭痛、胃痛、倦怠感など……学校を欠席することも多かったです。
病院へ行っても原因がわからなかったので、当時は、「私は生まれつき身体が弱い人間なのかな?」と思っていました。
でも今振り返ると、おそらく、ストレスや自律神経の乱れによる体調不良だったんだろうなと思います。
熱が出ることはほとんどなかったので、病院の先生や両親、親戚たちに“ズル休み”と思われることも少なくありませんでした。
体調の悪さよりも、その無理解が一番辛かったです。
絶望
中学は、私立の学校(女子校)へ行きました。
中学受験をした一番の理由は「低レベルな同級生や教師たちから離れたい」と思ったからです。
「いじめをしてくるアホな同級生や、物事の本質を見抜けないバカな先生は、きっと私立の学校にはいないはず……!」
そう思っていたんですよね。
しかし、その私の考えは幻想にすぎず、中学でも再び“ライトないじめ”を受けることになりました。
先生たちも「悪くはないけど特別良くもない」という感じで、あまり信頼できませんでした。
「この社会には希望も光もありゃしない」と思いましたし、この世に生を受けたことを後悔するほどでしたね。
今思えばちょっと大げさな気もするのですが、当時の私にとってはそのくらいショッキングな出来事でした。
孤独感と疲労感
幸い、いじめっ子とは中2のクラス替えで離れることができた上、クラス替えによって仲の良い友人もできました。
しかし、“漠然とした孤独感”と“人と一緒に過ごすことへの疲労感”がずっと消えず、かなりしんどかったです。
この孤独感や疲労感は「思春期あるある」と言える部分もあると思います。
しかし、私の場合は、対人恐怖症の要素やHSPの気質がかなりの割合を占めていたと推測します。
もしかしたら、女子校独特の空気感(すぐに派閥やグループを作りがちなところ)も、私には合わなかったのかもしれません……。
一番ネックだった塾の先生
この頃一番ネックだったのは、当時通っていた塾の先生との関係(というより対応)でした。
両親と同じような感じで、私の気持ちや考えを理解してくれないことがとにかく多かったんですよね。
意味もなく怒られたり、頑張りを否定されたり、ほかのクラスメイトと成績を比べて嫌味のようなことを言ってきたり……。
「塾の先生として、というより、一人の大人としてどうなのか」と言いたくなるような、人間性を疑う言動がとにかく多かったです。
詳しい話は今後の記事で紹介予定ですが、自分が大人になった今振り返ってみても、本当にひどい人たちだったと思います。
認めてもらいたい
家、学校、塾。私の居場所はどこにもありませんでした。
「死にたい」と思うこともたくさんありましたし、何もかもが辛くて、苦しくて、毎日のように泣いていました。
しかし、当時の私には、ささやかな「願い」がありました。
それは、「両親や塾の先生に自分の存在を認めてもらいたい」という思いです。
あまりにも自分の存在を否定されることが多かったので、「こんな私でも生きていて大丈夫なんだ」と思えるような、目に見える承認や愛情を得たかったんだと思います。
どうすれば、大人たちに自分の存在を認めてもらえるのか。
どうすえば、自分の頑張りを褒めてもらえるのか……。
13歳の私は必死に考えて、考えて、ある結論にたどり着きました。
「学校の定期テストで全科目90点以上を取れば、さすがの両親や塾の先生たちも私のことを認めてくれるかもしれない……!」
今思えばこれが、不登校へのカウントダウンでした。
我慢の糸が切れた瞬間
それからは、寝る暇も惜しんで勉強に励むようになりました。
授業の休み時間、帰りの電車の中、食事中、休みの日。1分でも時間ができれば、何かしらの勉強をしていました。
「とにかく大人たちに認めてもらいたい。褒めてもらいたい。“ちゃんと”私を見てほしい。」
その一心でした。
そして、中学2年の2学期の期末テストで、過去最高の成績をたたき出すことができました。
90点台を取れたのは、10科目中5科目。
目標だった「全科目90点台」には程遠い成績でしたが、努力が目に見える形で評価されたことは素直に嬉しかったです。
しかし、そのことを知った両親や塾の先生は、まさかの無反応。
「それがどうしたの?」という感じで、褒めるどころか興味すら示してくれませんでした。
このとき、私の中で何かが壊れました。
「もう、無理……。」
幼少期からじわじわ貯め込んでいた我慢の糸が、プツンと切れた瞬間でした。
「しばらく休みなさい」
年が明け、3学期に入りました。
毎日のように胃痛や頭痛に悩まされるようになり、学校を欠席・早退することが増え始めました。
塾に行くのも苦痛で仕方なく、毎週末におこなわれる小テストを未受験にしたり、授業を欠席したりすることも多かったです。
「最低でもあと4年間(高校卒業まで)は、意味のわからない監獄みたいなところで意味のわからない勉強をし続けなくてはいけないのか……。」
そう考えるだけでゾッとしましたし、パニックになりそうでした。
気づけば丸々1週間、学校を休んでいました。
その後2日間は頑張って登校しましたが、次の日にまた欠席。
なにかを察した学年主任の先生が支援室(学内カウンセリングルーム)に私を呼び出し、こう言いました。
「しばらく休みなさい。」
それから私は学校を長期欠席することとなり、事実上の「不登校」となりました。
これが、私が不登校になった経緯です。
まとめ
本記事では、私が不登校になった経緯を紹介しました。
改めて書いてみると、結構壮絶ですね。
対人恐怖症やHSP、自律神経失調症も相まって、かなり辛い毎日だったことが思い出されます。
ただし、この話はあくまでも一例にすぎません。
不登校は本当にケースバイケースですし、不登校の子どもの数だけ、さまざまなストーリーがあると思います。
一人ひとりの状況に寄り添いながら、子どもの成長を優しく見守れる社会になることを心から願います。