不登校

「長~い不登校生活の始まり」不登校体験記-中学編その①-

不登校体験記 中学編
yuki-yoshida

以前、私が不登校になったきっかけや経緯についての記事を書きました。

この記事は、投稿してからずっと人気ランキング上位に入っていて、2024年9月4日現在は1位を獲得しています。

それだけ多くの読者さまが不登校に関心を持ってくださっている証拠なのかもしれません。

というわけで、本記事から数回にわけて、私の不登校体験をゆるやかに綴っていこうと思います。

不登校に興味がある方や、今まさに不登校の渦中にいる方の参考になれば幸いです。

支援室に行く

中学2年の2月初旬に不登校になってから3学期が終わるまでは、「支援室」という学内カウンセリングルームに週1で行っていました。

カウンセラーの先生や学年主任のM先生※①と一緒にお茶を飲みながら雑談したり、パズルをしたり……。

中1のときに同じクラスだった友人(Kちゃん)も支援室に来ていたので、その子と過ごすことも多かったですね。

支援室は、とても和やかで、穏やかで、ゆったりとした時間が流れている場所でした。

まるで心がほっと休まる「オアシス」のような空間で、すごく居心地が良かったです。

※①:支援室のサポート教員でもありました。

両親との関係

私が不登校になったことについて、父親は意外と(?)理解を示してくれていました。

「行きたくないなら無理に行かなくてもいんじゃない?」という感じで、あまり何も言われなかったです。

それに対して母親は、ものすごく落ち込んでいました。

  • 「どうしてうちの子が?」
  • 「どうしてこうなったの?」
  • 「どうして学校に行けないの?」

そんな思いが、母親の落ち込み具合からひしひしと伝わってきました。

当時の私にとって、その母親の思いはとても重くて、しんどくて……。

正直、この頃は、母親の存在がものすごく負担でした。

あまりにも母親と2人で家にいることが辛すぎて、真剣に家出を考えていたくらいでした。

塾との付き合い方

小学生から通っていた近所の塾には、不登校になってからも行っていました。

本音を言えば、行きたくなかったです。

「塾に行きたくない」というよりは、「勉強したくない」という気持ちが強かったですね。

けれど、ずっと家にいるのもしんどかったので、週4くらいで行っていました。

友達もいましたし、不登校に理解を示してくれる先生も(わずかながら)いたので、良い気分転換になっていたかなと思います。

ただ、不登校になったばかりの頃に「お前が不登校になる意味がわからへん」と言ってきた数学の先生※②の授業には、それ以降全く出席できなくなりました。

結局、受験が間近に迫ってきた秋くらいまでは出席できなかったですが、もし受験がなければ一生出席しなかったと思います……。

※②:詳しい話はこちらの記事に書いています→「不登校のとき、両親や周りの大人の対応で辛かったこと」

体調の変化

不登校になる前は、とにかく胃痛になることが多くて、ずっと胃がキリキリしていました。

しかし、学校(教室)に行かなくなってからは、胃痛になることがほとんどなくなりました。

それだけ学校の存在がストレスだったのだと思います。

ただ、その代わりと言ってはなんですが、不登校以降は腹痛と食欲不振になることが急激に増えました。

もともと食事量は少ない方でしたが、食欲がなくてほとんどご飯を食べられない日も多かったです。

学校のストレスがなくなったのは良かったですが、不登校になった影響で、また新しいストレスや不安が出てきたのだろうなと思います。

気晴らしに行くはずだったディズニー旅行も体調不良で行けなくて、本当に辛かったです。

中3になっても行けず……

それから程なくして、4月になりました。新しい学年の始まりです。

両親や学校の先生たちは、「中3になったら行けるだろう」みたいな雰囲気をずっと醸し出していました。

しかし私は、そんな大人たちの期待に応えられる自信がありませんでした。

まだ教室に戻る気力はないと感じていましたし、「自分でもよくわからないけど、なんとなく教室には行きたくない……」という思いがあったんですよね。

そのため、両親や学校の先生から「頑張って行こう」と言われていた始業式には行けませんでした。

しかし、どうしても大人たちの期待に応えたかった私は、その後2日間だけ頑張って教室に行きました。

Kちゃんが教室に復帰できたことや、塾の友達たちが受験に向けて本格始動した様子を見て、「私も頑張らなきゃ……!」と思ったんですよね。

けれど、やっぱり、それ以上頑張ることはできなくて……。

それ以降は、ずっとお休みが続いていました。

毎朝、肩を落としながら学校に欠席の連絡を入れる母の様子は、今でも脳裏に強く焼き付いています。

週2での支援室通い

新学期が始まって2週間くらい経った頃、支援室のサポート教員をしていたM先生から電話がかかってきました。

そこで初めて、以前お世話になったカウンセラーの先生が退職したことと、M先生が支援室専属の教員になったことを知りました。

その後私は、M先生の声かけもあり、週2で支援室に通うようになりました。

支援室での生活については、近日公開予定のスクールカウンセラーの記事で詳しく紹介したいと思います。

支援室への登校は、午前もしくは午後の2時間程度でした。

このとき一番つらかったのが、通勤・通学ラッシュの時間とは別の時間に制服を着て電車に乗らなければいけなかったことです。

「周りの人にどう思われているかな?」と思うと、ものすごく怖かったですね。

学校に到着してからも、授業中で静まり返った校舎を隠れるように歩くのはとてもしんどかったです。

中3の私
中3の私

もし誰かに見られたらどうしよう?

もし誰かに声をかけられたらどうしよう……?

今思えば、こういう経験の積み重ねが、対人恐怖やHSPの気質を助長させたのかもしれません。

保健室登校はせず

M先生は週2回しか学校に来ていなかったので、「私がいないときに学校に来ることがあったら保健室に行けばいいよ」と言ってくれていました。

いわゆる“保健室登校”というやつですね。

不登校になる前から、私は学内で体調を崩すことが多かったので、保健室によく通っていました。

しかし、養護教諭の先生がものすごくひどい人だったんですよね。

ひどい養護教諭
ひどい養護教諭

熱がないなら教室に戻って。

ここはお薬出せないから、お腹が痛くても頑張って教室で耐えて。

そんなことばかり言われていて、こちらの苦しみに全く寄り添ってくれませんでした。

今思い出しても胸糞が悪いです。

一度、胃痛がひどくて保健室に駆け込んだ際も「トイレに行ったら治るでしょ」と、お手洗いに無理やり連れて行かされました。

そのときに、あまりに痛くてその場でしゃがみ込んだら、「え?(笑)そんなに?(笑)」みたいな感じで笑われて……。

それ以来、保健室には行かなくなりました。

M先生は「今年度から先生が代わった」と言っていましたが、それでもやはり、前の先生のトラウマが強かったので、一度も保健室は利用しませんでしたね。

保健室に優しい先生がいる学校……羨ましいです。

家庭訪問はなし

不登校になったときによく聞くのが、担任の先生が自宅を訪れる「家庭訪問」です。

しかし、私の学校は私立だったためか、不登校になっても先生が家を訪ねてくるようなことは一切ありませんでした。

もし家に来られてもうざいだけだったと思うので(笑)ある意味、家庭訪問がない学校で良かったなと思います。

ただその分、M先生や担任の先生は、母親と電話で頻繁にやりとりしていました。

何を話していたのかはあまり知らないのですが、とにかく母が、M先生に対する愚痴をしょっちゅう言っていたことはよく覚えています(笑)

「M先生はゆきちゃんのことを何もわかっていない」と。

一学校教師が娘との接し方について色々と忠告したり、アドバイスをしたりしてくる……というのは、母親にとっては相当しんどいことなのだろうなと思います。

そりゃあ、自分が命がけで生んだ子どものことを、何のつながりもない人にあーだこーだ言われるのは嫌ですよね。

でも、当時の私はこう思っていました。

中3の私
中3の私

一番私のことをわかってないのは、あなたでしょ。

もっとちゃんと私のことを見てよ……。

私が不登校になってから、母はずっと泣いていました。

私が苦しもうが、悲しもうが、そんなことはお構いなしで、とにかくずっと泣いてばかりいました。

母も母でかなりのしんどさを抱えていたのだと思います。

でも、不登校になって一番辛い思いをしているのは、当事者である私です。

そして、そんな不登校のきっかけとなったのは……両親を含めた大人たちの「無関心と無理解」です。

M先生に怒りの感情を向ける暇があるのならば、もう少し私の苦しみや辛さに寄り添ってほしかったと思います。

引っ越しの話も

家から学校までは、電車を乗り継いで30分程度かかりました。

そのため父が、「学校の近くに引っ越すか?」みたいなことを言ってくれていたこともありました。

気持ちは嬉しかったですが、「もしそれでも学校に行けなかったら……?」と考えると不安でしょうがなく、引っ越す勇気はありませんでしたね。

「私のために引っ越す」というのも、なんだか責任が重すぎる気がして、ちょっとしんどかったです。

それだけでなく、「学校って、そこまでして行かなければいけないものなのかな?」みたいな思いもありました。

今振り返ると、この頃からすでに、学校(教室)に戻る気はあまりなかったのだと思います。

家での過ごし方

不登校になってからも、朝は一応8時半くらいに起きていました。

そこから朝ご飯を食べて、テレビを観ながらイラストを描いたり、ベッドでゴロゴロしたり、たまーに勉強したり……。

そして昼食を食べて、支援室に行く日は支援室に行き、塾がある日は塾に行き、という生活でした。

「不登校になると昼夜逆転する場合が多い」とよく言われますが、私は昼夜逆転の経験が一切ありません。

もちろん、夜更かしして深夜2時3時まで起きていることも多々ありましたが、それでも朝は必ず10時までには起きていましたね。

母が外出していて家に一人でいるときは、パソコンをすることが多かったです。

当時はまだスマホが普及していなかったので、何かしらの情報を得ようと思ったらパソコンをいじるくらいしか方法がなかったんですよね。

パソコンでは、ずっと不登校のことを調べていました。

不登校になる人は、何がきっかけで行けなくなるのか。

不登校を脱した人は、何がきっかけで学校に戻れるようになるのか。

高校はどうなるか、大学はどうなるか、それこそ社会に出たらどうなるか……。

とにかく自分の未来が不安で恐怖で仕方なく、何かに取り憑かれたように無我夢中でネットを見ていた記憶があります。

両親や学校の先生、塾の先生たちが、今後の進路について何の情報も与えてくれなかったことも、ネットばかり見ていた大きな要因のひとつですね……。

まとめ

本記事では、中学2年生で不登校になってから数か月間の記録をまとめてみました。

この頃の私に圧倒的に足りていなかったのは、「母親からの理解と受容」だったと思います。

不登校になった私を受け入れ、気持ちを理解し、苦しみや悲しみに寄り添いながら、今後のことを一緒に考える……。

そんな時間があれば、少しは救われたのかなと思います。

もし今この記事を読んでいる方の中に、お子さまの不登校に悩んでいるお母さまがいらっしゃるならば……。

どうか、お子さまの苦しみや悲しみにそっと寄り添いながら、学校に行きたくない気持ちをしっかりと受け止めてあげてください。

そして、お子さまが笑顔でいられる道を一緒に探してあげてください。

一番大切なのは「どうすれば子どもが学校に行けるかどうか」ではなくて、「どうすれば子どもが笑顔で毎日を過ごせるかどうか」です。

そのことを忘れずに、焦らず、ゆっくりと進んでいってほしいなと思います。

ABOUT ME
ゆき
ゆき
生きづらさマイスター
1996年生まれ。佛教大学大学院・社会学専攻社会学研究科(修士課程)修了。 自身のさまざまな生きづらさ体験をもとに、当事者目線からの情報発信や支援活動をおこなっています。
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