「不登校らしくない不登校の日々」不登校体験記-中学編その②-
本記事は、以下の続編です。
今回は、中学3年生の5月くらいから、中学を卒業するまでの話をまとめました。
学校の先生による教室への催促、クラスメイトからの悪口、大人げない塾の先生の行動、辛すぎた高校受験……。
たくさんの無理をして、たくさんの涙を流して、たくさんの努力をした約1年間のお話です。
時たま教室へ
GWが明けた頃から、支援室担当教員のM先生と担任のI先生に「そろそろ教室に戻ったら?」ということを頻繁に言われるようになりました。
どうやら、心理テストの結果が以前と比べて良くなっていたらしく、「元気になったから行けるやろ」と思われていたみたいです※①。
教室に戻る気がない、戻る元気がない私の気持ちは全くの無視です。本当に呆れます。
さすがにそのときは教室に行きませんでしたが、「いつまでもこんな状態でいるのは良くないだろうな……」ということは、ひしひしと感じていました。
そのため、数日後に1時間だけ教室へ行きました。
50分の授業をたった1コマ受けるだけでものすごい疲労感に襲われ、「普通に学校に通うことがいかに大変か」ということを改めて思い知りましたね。
そして、「こんな調子では、休めば休むほど“ふつうの生活”に戻れなくなってしまう」と不安になり、時たま教室へ行くようになりました。
今思えば、確実に無理をしていましたね……。
※:詳しくはこちらの記事に書いています→「不登校のとき、両親や周りの大人の対応で辛かったこと」。
クラスメイトからの悪口
教室に行き始めたことには、もうひとつ理由があります。
それは、「ゆきちゃんは学校行事にしか来ない(=ズル休みしている)」と言っているクラスメイトがいることを知ったから※②です。
5月の体育祭も、6月の合唱コンクールも、1時間程度でしたが一応参加していました。
でもそれは、私の意志で参加していたわけではありません。
母親やM先生、I先生が「参加する前提」で勝手に話を進めていたから、仕方なく参加していただけです。
それにも関わらず、そんなふうに言われるのは不本意ですし、とても腹が立ちました。
なので、「たまには教室にも行ったるわ!」というような気持ちで、たまに授業を受けに行ったり、一部科目だけ定期テストを受けに行ったりしていました。
この頃の私は「1日でも早く“ふつう”に戻らなければ」と必死でした。
行事や教室に行かないことで母親が病んだり、I先生やM先生、クラスメイトに色々言われたりするのがとにかく嫌だったんですよね。
そのため、「自分のため」というよりも「周りを黙らせるために無理をしていた」部分が大きかったのかなと感じます。
※②:当時頻繁に連絡をくれていた友人が教えてくれました。
涙の夏期講習
夏休みは、ほぼ毎日、塾の夏期講習に行っていました。
夏期講習は、お昼1時から夜10時まであったのですが、体調が優れない日も多く、全体の半分くらいしか出席できなかったですね。
「塾には行けても授業に出る元気がない……」という日も少なくなくて、一人で空き教室にこもって悔し涙を流す日もたくさんありました。
不登校になってから半年が経つというのに、状況は何も変わらない。
学校の授業も塾の授業も、まったく出られないわけではないものの、出席するためには膨大な体力と精神力を使わなければならない。
ちょっと動くだけですぐに疲れたり、胃薬を手放せなかったりして、どうしてもみんなと同じように頑張れない……。
そんな自分が嫌で嫌で仕方なくて、ずっと泣いていた記憶しかありません。
この頃の塾で、主に私の面倒を見てくれていたのは、小学生時代からお世話になっている担任のW先生と、塾長の先生でした。
この2人はわりと不登校に対して寛容だったので、「教室に行きなよ」とか「行事に参加しないの?」みたいなことを言ってくることは一切ありませんでした。
逆に「無理に行く必要ないんじゃない?」という感じの人たちだったので、その2人のスタンスは当時の私にとってかなり救いでしたね。
とはいえ、塾の先生たちも「一人の人間」です。
忙しい時期や先生の機嫌が良くないときは、「話を聞いてほしい」と言っただけで嫌な態度を取られたり、傷つくことを言われたりすることも多々ありました※③。
本当は、忙しい時期も、コンディションが良くない日も、できるだけ同じような対応をすべきだと思います。
けれど正直、2人ともそこまでできた人間ではなかったので(笑)
忙しさに比例して、私への対応や言葉がけがどんどん杜撰になっていったんですよね。
特に夏期講習の間はその杜撰さが顕著に表れていて、本当にしんどかったです。
「忙しいのはわかるけど、それでも“一人ひとりを大切に”するのがあなたたちの仕事じゃないの?」と思っていました。
そんな2人の対応に呆れ、夏休みは余計に病んでいましたね……。
※③:そのときの出来事が、「不登校のとき、両親や周りの大人の対応で辛かったこと」という記事で紹介したエピソードにつながります。
今後の進路
「高校をどうするか?」ということは、本当にめちゃくちゃ悩んでいました。
私の学校は中高一貫校だったため、そのまま高校に行くことができたのですが、私はずっと「外部受験をして別の高校へ行きたい」※④と思っていたんですよね。
それは不登校になる前から思っていて、だからこそ無理を言って塾に通わせてもらったという経緯もあります。
しかし、不登校になってからは、「学力的にも体力的にも、外部受験は無理なのでは?」と思うようになりました。
そのため、中3以降は内部進学するつもりで準備を進めていたのですが……なんとなく、モヤモヤした気持ちがあるのも事実でした。
このまま内部に残っている方が確実に負担は少ないですし、「知っている先生や友だちがいる」という安心感も大きいです。
しかし、「今の学校で幸せに過ごしている高校生の自分の姿」が、まったくと言っていいほど想像できませんでした。
それだったら、新しい環境に身を置いて、一からリセットして頑張る方が、人生を好転させられる可能性が高いのではないか……?
そう思いました。
今振り返ると、通信制高校に行くとか、フリースクールに行くとか、そういう道を選んでも良かったと思いますし、そうすべきだったとも思います。
けれど当時は、そのような情報が全くなかった※⑤ので、「全日制高校に行かない=中卒で働くか引きこもりになるしか道がない」というような認識でした。
そのため、当時の私の中では「内部に残るか、外部受験して全日制高校に行くか」という2択しかなく、少しでも変化を望める可能性がある外部受験の道を選びました。
※④:入学した中学は第一志望校ではなかったので、「高校こそはもっとレベルの高い学校に行きたい」という思く、外部受験を希望していました。
※⑤:両親も、学校の先生も、塾の先生も、そういう情報を一切教えてくれなかったからです。スマホ普及前の時代とはいえ、これはちょっとひどいと思います……。
たった2か月の受験生生活
外部受験を正式に決めたのは、12月初旬。受験まで2か月という、普通ではありえないタイミングでした。
その頃にあった2学期の期末テストは、不登校になってはじめて全科目すべてを受験しました。
教室に行って授業を出る回数も増やし、支援室通学も含めると、ほぼ毎日学校に行っていたように思います。
今振り返ると、とにかく「不登校らしくない不登校」でした。
塾の冬休み講習や正月特訓は、心身のコンディションが悪くてほとんど参加できませんでした。
毎日のように遅刻と早退を繰り返し、自分でもわけがわからなくなっていた記憶があります。
とにかく、みんなのように頑張れない自分にイライラして、モヤモヤして、ずっと泣いていましたね。
本当に、この頃の私は「自分が無理をしている」という自覚があまりにもなさすぎました。
受験まで1か月を切ると、今まで以上に情緒不安定になり、学校や塾の授業中に突然涙が出てくることも多かったです。
緊張、プレッシャー、不安、恐怖……。自分で決めたこととはいえ、やはり、不登校の私には荷が大きすぎたのだと思います。
頼りにできる大人や適切なサポートをしてくれる大人が誰一人としていなかったことも相まって、「しんどい」なんて言葉では表現できないくらいにしんどかったです。
今これを書いているだけでも、あの頃を思い出して気分が悪いです……。
高校受験
第一志望校の入試は2日間あって、2日間とも無事に受験することができました。
しかし、その次の日の学校は、1時間目の国語を終えた後に体調が悪くなり※⑥、途中で早退することになりました。
3日連続受験は、普通の子どもでもしんどいと思います。
それを、体力も精神力も不十分な私がやろうとするとどうなるか……火を見るより明らかです。
このスケジュールでGOサインを出した両親と塾の先生はもちろん、私自身も、不登校による弊害を甘く見すぎていたと思います。
苦しい中、精一杯実力を発揮しようと頑張ったあの頃の自分を褒めてあげたいです。
第一志望校にはあっさりと落ちため、その後受験した私立の全日制高校へ進学することになりました。
その高校は、
- 部活をひたすらに頑張るコース
- 部活も勉強も両立して頑張るコース
- 勉強をひたすらに頑張るコース
という3つのコースがあり、それぞれ偏差値が微妙に違っていました。
私は「部活も勉強も両立して頑張るコース」を希望していました。
勉強や部活だけに専念する生活は考えられなかったですし、特に勉強コースに至っては、そもそも自分の学力的に届かないと思っていたからです。
出願時は、自身の希望コースに印をつけて受験するような感じでしたが、その高校は「回し合格制度」というものがありました。
たとえば、勉強コースで出願し、もし点数が足りずに不合格になったとしても、部活コースや両立コースに届く点数であれば、そっちで合格判定が出るという感じです。
そのため塾の先生たちは、「勉強コースで出願しなさい、そうしたら回し合格になるから」ということをずっと言っていて、両親も同意見でした。
私はあまり乗り気ではなかったのですが、“大人の圧”に逆らうことができず、渋々、勉強コースで出願願を出しました。
すると、あろうことか、勉強コースで合格してしまったのです……。
合格通知を見たとき、私は号泣しました。
目標よりも上のレベルで合格したことが嬉しかったのではなく、未来が不安すぎて涙が止まらなかったのです。
毎日の7時間授業、補修、土曜授業、勉強のために制限される部活動、定期的な勉強合宿……。
「こんなの、絶対やっていける気がしない」と思いました。
とにかく不安で、怖くて、悲しくて、辛くて、ずっと泣いていた記憶しかありません。
この先、私はどうなってしまうのか。今思えば、この時点ですでに答えは出ていたような気がします……。
※⑥:人生で初めて過呼吸になりました。
まとめ
本記事では、不登校になって数か月が経ってから中学校を卒業するまでの話をまとめてみました。
今振り返ると、あまり不登校らしくない不登校だったなと思いますが、今の私があの頃の私に言えることは、ただひとつです。
頼むからそれ以上の無理をしないで……。
教室に頻繁に行くようになったことも、頑張って塾の授業に出ていたことも、高校受験をしたことも……。
どれもあのときの自分にとって最善の選択だったのでしょうが、「そこまで無理をして頑張らなくても良かったのにな」と、今になってすごく思います。
もしこの時代にしっかりと心と体を休ませることができていたら、高校以降の過ごし方は全然違うものになっていたはずです。
しかし、今更そんな“たらればの話”をしても仕方ありません。
とりあえず今は、両親や学校・塾の先生たちからの無理解や、不親切な対応に耐えながら孤独に頑張っていた自分を労ってあげたい気持ちでいっぱいです。
あの頃の私よ。偉かったね。よく頑張ったね。いつか絶対幸せになってね……!!!